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第1回から第4回までのコミンテルン世界大会

第1回コミンテルン大会は1919年3月2日より3月6日までモスクワで開催され、30か国から52名の代表が参加し、コミンテルンの綱領及び「ブルジョワの民主主義」と「プロレタリアートの独裁」についてのレーニンのテーゼが満場一致をもって可決されている。

コミンテルン執行委員会の最初の議長はグリゴリー・ジノヴィエフであり、1919年から1926年まで務めているが、決定的な影響力を持っていたのは1924年1月のその死までレーニンであり、その革命に関する戦略は1902 年のパンフレットWhat Is to Be Done?(なすべきことは何か?)に説明されている。レーニンのリーダーシップの下におけるコミンテルンの主たる方針は、国際的にプロレタリアの革命を助けるための共産党が世界中で設立されなくてはならないというものであった。民主的に決定し、しかしいかなる決定がなされても規律ある態度でそれを支持する「議論の自由、行動の統一」という彼の民主集中制の原則は各党によって共有された[10]。この時期には、コミンテルンは「世界革命の参謀本部」として知られるようになっている[11]。

第2回コミンテルン大会は41か国から218名の代表が出席し、最初はペトログラードにおいて1920年7月19日に開会され、7月23日から8月7日の期間にはモスクワにおいて続けられている。世界共産運動の組織原則、つまり共産党の役割と構成が主要な議題とされ、可決を見ている。この大会に先立ち、レーニンは全ての社会主義党に送られた21項目の前提条件を含め、数多くの文書を送付している。会議はコミンテルンに参加を望むあらゆるのグループに対して、その21項目の条件を参加のための条件として採択した。その21項目の条件は共産党と他の社会主義のグループの間の区別を求め[12]、コミンテルンの各部にブルジョワ国家の正当性を信用しないことを要求している。また、民主主義的な中央集権主義の方向に沿った党組織の強化も求められ、党広報部と議会内会派は党指導部の直接の管理下に置かれるものとされた。

植民地化された世界の政治情勢に関して、第2回コミンテルン大会は植民地化された国々のプロレタリアート、農民および地元のブルジョアジーの間で形成されるべき統一戦線を求めている。大会前にレーニンが立案した21の前提条件の中に全ての共産党は植民地でブルジョワ的民主主義の解放運動を支持しなければならないと規定した第11項の命題がある。しかし、かなりの代表者がブルジョアジーと同盟する考えに反対し、かえってこれらの国々の共産主義の動きに対する支持を求めた。メキシコ共産党の代表として出席したM.N. Royもその非難を行っている。会議は第8項目になったものの中から、その「ブルジョワ的民主主義」という言葉を削除した[13]。
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新しい国際共産党たるコミンテルンを支持するか否かをもとに多くのヨーロッパの社会主義党が分裂した。フランスのSFIO("French Section of the Workers International")は1920年のTours Congress において脱退し、これが新たにフランス共産党(初めは"French Section of the Communist International"(コミンテルンのフランス部) - SFICと呼ばれていた)を創設することにつながる。このような創設により他にも1920年にはスペイン共産党、1921年にはイタリア共産党とベルギー共産党などが誕生している。

第3回コミンテルン大会は1921年6月22日から7月12日にかけてモスクワで開催され、52か国から605名の代表が出席し、主に労働階級の獲得手法について審議している。この大会の書類は状況が好ましかった際に闘争を「内戦」に変えることを可能にした手段、及び「公然とした革命蜂起」について述べている[14]。レフ・トロツキーが顕著な役割を演じた1922年11月の第4回大会はこのムードが続いた[15]。

第4回コミンテルン大会は58か国から408名の代表が出席し、最初はペトログラードにおいて1922年11月5日に開会され、11月9日から12月5日の期間にはモスクワにおいて続けられている。レーニンの出席はこの大会が最後となった。統一戦線に関する戦術討議が議題とされたほか、レーニンはコミンテルン各支部のボリシェヴィキ化、さらに各国共産党がロシア共産党の経験を重視することを強調している。

コミンテルン史の「第一期」として知られているこの初期、ロシア内戦の中で攻撃されていたボルシェビキ革命とヨーロッパ中の革命の波(英文記事)により、コミンテルンの優先事項は十月革命を輸出することであった。一部の共産党は秘密の軍事組織を持っていた。ドイツ共産党のM-Apparatはその例である。その目的は共産主義者が信じていた近い将来のドイツ内戦に備えること、及び共産党に潜入していたかもしれない敵と情報提供者を粛清することであった。準軍事組織である赤色戦線戦士同盟も存在していた[16]。

この時期、コミンテルンは1919年のハンガリー・ソビエト共和国を初めとしてヨーロッパ全域でいくつもの革命に関与している。ソ連からは数百の扇動者と経済援助が送られ、レーニンはその指導者であったクン・ベーラと定期的に連絡を取っていた。直ちに公式の「政府革命評議会のテロ集団」が編成され、それは非公式に「レーニン・ボーイズ(Lenin Boys)」として知られた[17]。次の企てはハレ発ライプツィヒ行きの急行列車をダイナマイトで爆破する計画を含めた1921年のドイツ国内における「3月行動(March Action)」であった。これが失敗するとレーニンはドイツ共産党の指導者であったポール・レビ(Paul Levi)を権力の座から追放することを命じている[18] 。新しい企てはルール危機の際に行われた。赤軍が動員され、計画された暴動の支援に向う構えとなった。ドイツ政府による断固とした措置はその計画を中止させたが、例外としてハンブルグでは伝達の間違いにより200名ないし300名の共産主義者が警察署を襲撃したがすぐに鎮圧された[19]。1924年にはエストニア共産党によるエストニアにおけるクーデターが失敗している[20]。

いくつかの国際組織は、この期間にコミンテルンが支援している:

赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン – 1920年結成)
Red Peasant International(赤色農民インターナショナル Krestintern – 1923年結成)
International Red Aid(インターナショナル赤色支援機構 MOPR – 1922年結成)
Communist Youth International(共産主義者青年インターナショナル 1919年再結成)
Red Sports International(赤色スポーツ・インターナショナル Sportintern)
International of the Proletarian Freethinkers (プロレタリア自由思想者インターナショナル1925年 – 1933年)
League against Imperialism(反帝国主義同盟 1927年結成)
1924年にはモンゴル人民革命党がコミンテルンに参加[21]。中国において最初は中国共産党と中国国民党の両方を支援している。1927年の蒋介石との決定的な決別の後、スターリンはこの時は失敗した反乱を援助するために個人的な特使を送っている

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2009年06月02日 06:25に投稿されたエントリーのページです。

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